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長野地方裁判所 昭和52年(行ウ)2号 判決 1980年10月30日

原告 柴田正子

右訴訟代理人弁護士 富森啓児

武田芳彦

大門嗣二

木下哲雄

被告 地方公務員災害補償基金長野県支部長

右訴訟代理人弁護士 田中隆

主文

被告が昭和四九年四月一〇日付で原告に対してなした地方公務員災害補償法による公務外認定処分を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告の地方公務員としての経歴

原告は、昭和三四年三月高校卒業後、同年四月、塩崎村役場の職員として採用され、同村農業委員会に勤務した。塩崎村は、同年五月一日、篠ノ井町と合併し篠ノ井市となったが、これに伴い、原告は、同市事務吏員として同市役所(塩崎村役場)で勤務を続けた。同年八月、原告は、同市福祉事務所に転勤となり、同三八年七月九日まで同事務所で勤務した後、同月一〇日、同市総務課付塩崎支所市民係として同支所で窓口事務に従事した。同四一年一〇月一六日、篠ノ井市が長野市に合併して、右塩崎支所は長野市役所篠ノ井支所塩崎出張所となったが、原告は、同出張所で長野市事務吏員として勤務した後、同四二年五月篠ノ井支所勤務へと配置換えになり、市民係として窓口業務に従事し、同四四年五月、資料係に配置換えになり、同四五年六月、学校図書館司書として篠ノ井西中学校に配置換えされ、同四六年三月、同校事務職員となった。原告は、同年九月一〇日頃から療養休暇に入り(同年一二月まで)、引続き同四七年三月三一日まで病気休職したが、同年四月一日復職した。しかし、原告は、同年九月一日、再び療養休暇に入り(同年一一月三〇日まで)、同年一一月三〇日休職を命じられ、同四九年九月三〇日まで休職期間が更新され、右同日、復職を命じられ、同五一年四月一日長野市立篠ノ井東中学校に配置換えとなり、現在に至っている。

2  原告の従事した業務の内容及び職場環境

原告は、通算すると七年間もの長期間市民課の窓口事務を担当したが、この間における労働は、人員不足で業務量が過重なものであるうえ、劣悪な職業環境のもとにおけるものであった。また、原告が療養休暇に入るまで一年半従事した一般学校事務は業務量が過重であった。

(一) 昭和三八年七月一〇日から同四二年四月まで(篠ノ井市役所塩崎支所、のちに長野市役所塩崎出張所)

原告は、市民係として、戸籍届、住民異動届の受付、戸籍謄抄本、住民票写の交付、印鑑登録の受付及び印鑑証明書の交付、国民健康保険の受付、妊産婦手帳の交付等の事務に従事するほか、本庁との連絡、電話応対等の雑務をしたり、塩崎支所に併設されていた公民館(図書館を含む)の仕事を手伝った。昭和四一年、市の合併により住居表示変更作業が新たに増えた。当時の原告の業務は過重であり、塩崎支所の職場環境は劣悪であった。

(二) 昭和四二年五月から同四四年四月まで(通明小学校休育館仮庁舎での勤務)

篠ノ井支所の庁舎は建替えのため、通明小学校の体育館が仮庁舎として使用されたが、特に庁舎使用のために改築、改造はなされなかったため、職場環境は塩崎出張所よりも劣っていた。事務量は、塩崎出張所当時より増大しただけでなく複雑になっていた。

(三) 昭和四四年四月から同四五年五月まで(篠ノ井支所新庁舎)

業務量は一向に軽減されず、模写電送装置導入が企画され、そのため新たに台帳整備作業が加わった。

(四) 昭和四五年六月から同四七年八月まで(篠ノ井西中学校)

原告は、一般の学校事務職員のなすべき学校事務のほかに、生徒の遠距離通学費補助金事務を課せられ、各種の書類作成に従事した。

3  原告の発病及びその後の経過

(一) 原告は、特記すべき既応症もなく、極めて健康で病気しらずの身体の持主であったが、昭和三八年からの塩崎出張所での四年間の就業で、相当程度疲労が蓄積し、疲れやすくなっていたところ、篠ノ井支所仮庁舎での勤務で声がかれ、のどが痛む、イライラする、口がかわく、足が疲れる、指先がしびれる、激しい生理痛を覚えるなどの症状があらわれ、更には目の疲れや痛み、肩こり、後頭部の痛みに悩むようになった。新庁舎に移転後も肩こり、疲労が続いたが、特に目の痛みが強くなった。篠ノ井西中学校では、一層症状が悪化した。

(二) この間、原告は、昭和四五年四月ころ、平林眼科、同四六年五月順天五明堂病院(眼科)、同年七月佐久総合病院(眼科、内科、神経科)の診断を受けたのち、同年九月柳原整形外科に入院(頸腕症候群との診断をはじめて受けた。)、同年一二月同病院を退院、同四七年一月長野日赤病院の検査、同年三月長野診療所でハリの治療を受け、同年七月、東京都大田区の大田病院にて斉藤和夫医師の診療を受け、同年九月から同四八年三月まで同病院で入院、加療を受けた。この間、右斉藤医師により、頸肩腕症候群、背腰痛症、続発性反射性疼痛筋硬症との診断を受けた。

4  原告の公務上災害認定請求と被告の公務外認定処分

原告は、昭和四八年二月二二日、被告に対し原告の疾病が公務上の災害であることの認定を求めたが、被告は、同四九年四月一〇日付で原告に対し公務外の災害と認定する処分(以下、本件処分という。)をした。そこで、原告は同年四月二五日付で審査請求したところ、地方公務員災害補償基金長野県支部審査会は、右審査請求を棄却する旨の裁決をしたので、更に再審査の請求をしたけれども、地方公務員災害補償基金審査会は、昭和五一年一一月二四日付で再審査の請求を棄却する旨の裁決をした。

5  原告の疾病と公務関連性

原告の従事した窓口事務は、筆記作業、押印作業を中心として上肢、手指を繰り返し使用する作業の複合したものである。また、原告は、度重なる合併による住居表示の変更、模写電送装置導入のため台帳書替え等の筆耕の仕事に休みなく従事していた。そして、学校事務においても過重な筆記作業と押印作業に従事していたのである。原告の頸肩腕障害の発症が右のような原告の従事した公務に起因することは明らかである。

6  よって、原告は、被告に対し、本件処分の取消を求める。

《以下事実省略》

理由

一  請求の原因1(原告の地方公務員としての経歴)及び4(原告の公務上災害認定請求と被告の公務外認定処分)に関する事実は、当事者間に争いがない。

二  原告の従事した業務の内容及び職場環境(請求の原因2の事実)

当事者間に争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  原告は、昭和三八年七月から篠ノ井市役所塩崎支所(昭和四一年一〇月長野市役所篠ノ井支所塩崎出張所となる。)において、市民係として、戸籍届、住民異動届の受付、戸籍謄抄本、住民票写の交付、印鑑登録の受付及び印鑑証明書の交付、国民健康保険の受付、妊産婦手帳の交付等の事務に従事するほか、支所の人員が少なく女子職員が原告のみであったため、各種の会議の際のお茶の接待、本庁との連絡事務、公民館事務の手伝い、電話の取次等の雑多な仕事をしなければならなかった。市民係としての原告の事務内容は、概略すると、まず窓口に来た市民に各種申請書用紙を説明して渡し、それに市民が所定事項を記入したものを確認、訂正したうえで受理し、各種原簿を取り出してそれによって手書きあるいはコピーにより各種書類を作成して認証文、職印等多数の押印をしてその市民に渡し、原簿を返却するというもので、筆記及び押印作業のほかに原簿の取出、運搬、収納及びコピー作成作業等の上肢、手指を繰り返し使用する作業の複合したものであった。塩崎支所では、執務室と原簿の保管場所が一〇数メートル離れていたため、原告は、この間を、毎日一冊約一・五キログラムの原簿を五冊程度抱えて往来しなければならなかった。原告が来る前は、塩崎支所の市民課には三名の職員がいたが、それが二名に減らされており、原告は、農村地帯の特殊性から事実上十分に昼休みをとれず、休日にも頼まれれば仕事を断わる訳にはいかなかった。人員の削減とは逆に、市民係としての業務量は、地域の住宅地化、電話、自動車の普及に伴って漸増傾向にあったところ、昭和四一年一〇月の長野市への合併に伴い、住居表示変更事務が新たに加わり、原告は、資料係の職員一名と共に、戸籍、戸籍の附票、住民票、印鑑登録台帳の地番住居表示変更や本籍地番表示変更通知、戸籍附票記載変更通知の手書きの作業をしたり、当時あいついだ全国各地の他市町村の合併に伴い住民票、戸籍附票の地番変更の手書き作業をしなければならなかった。塩崎支所の執務室は、旧塩崎村役場の応接室が使われていて窓の外側に家畜小屋があるため採光状態が悪く、室内は薄暗く、かつ、暖房設備がないため冬期は寒く、また同支所における簿冊の保管場所は、前記のように離れた場所にあるのみならず、簿冊を取り出したり収納するには、中腰になったり腕を胸の上の位置に上げるというように不自然な姿勢をとらなければならず、原告にとって塩崎支所は、決して良好な環境とはいえなかった。

2  原告が昭和四二年五月長野市役所篠ノ井支所に移ってからは、原告は、塩崎支所におけるときのような雑用がなくなり、市民係として前記のような窓口事務に専従することとなった。同支所における業務量は依然として漸増傾向にあったが、市民係の人員は、昭和四二年度には、係長以下四名であったのが、同四三年度には二名増員されたものの、保険課の廃止のため国民年金の受付事務を市民係が引継いだため、必ずしも十分な労働軽減にはつながらず、更に二名が増員された昭和四四年には、原告が資料係へと配置換えとなったので原告は比較的業務量の多い時期に市民係に配置されていた。それに加えて、原告が篠ノ井支所に移った後に塩崎出張所では職員の補充がなされず、資料係と市民係を一人の職員が兼任していたところ、その職員が休暇をとった際には、篠ノ井支所から原告が出張して一人で仕事をしなければならなかった。篠ノ井支所市民係では、係長が窓口に出なかったため、窓口事務の経験者は、原告のみという状態であった。そのため、統計上の受付件数からみると、原告の業務量は他の職員に比して決して過重とはいえなかったが、原告は、時間を要する複雑な内容の仕事を主として処理し、他の職員から業務に関する教示を求められることも多かった。篠ノ井支所における窓口事務の仕事は、異動期の三、四月と年末の一二月が特に忙しく、一日の内でも時間帯により繁忙の差が著しく、多い時には二、三〇人の市民が待つこともあり、市民相手の迅速な処理を要求される精神的緊張度の高い業務であり、昼休みも事実上十分にとれない状態であったが、原告の勤務態度は真面目であり、原告は、他の職員が収納を怠って放置した原簿を進んで書棚(執務机の周囲にあり、住民票は約一メートル、戸籍簿は約一・八メートルの高さの位置に保管されていた。)に収納するなどしていた。原告が篠ノ井支所に来た頃から、住民異動届が五枚綴の複写式のものとなり、ボールペンで記入することとなったが、原告ら市民係職員は、受付にあたり、届出人が強く記入しないため下まで複写されていないものをなぞり書きしたり、届出人が誤った地番等を記入したのを訂正したりしなければならなかった。この頃から市民係の仕事にそれまで使用されていたガラスペンに代ってボールペンが使用されるようになり、原告の筆記作業における手指の負担が増大した。また、この頃、それまで別々の係で処理していたものを市民課の窓口で全部手続することのできる窓口一本化の方式がとられるようになったため、窓口事務は複雑化し、市民との応待時間も長くなった。そのころ篠ノ井支所は、旧庁舎の建替えのため、通明小学校の体育館を仮庁舎として使用していたが、庁舎として使用するにあたりそのための格別の改造、改築がなされたわけでもなかったので、職場環境は塩崎出張所当時より劣悪なものであった。すなわち、天井が高かったため、照明が明るくなく、暖房は市民課に石炭ストーブが一個あっただけで寒く、声が反響して騒々しく市民を呼ぶ時には大声を出さねばならず、体育館の周囲が舗装されていないので、館内は全体に埃っぽい状態であった。また、原告の事務机と受付台は直角に配置されていて受付台の高さが約一メートル、事務机の高さが約七五センチメートルであったため、市民との応待は立ってやり、事務処理は座ってやり、時には座ったまま首を左に曲げて上を見上げるという不自然な姿勢で応待をすることもあった。

3  篠ノ井支所資料係では、原告は、市民係で受付けた前記住民異動届を点検し、複写の十分でないものをボールペンでなぞり書きし、これに基づいて住民票、戸籍附票、本籍地への住所変更通知等の手書き作業という本来の資料係としての事務を担当したほか、昭和四五年春から実施を予定していた住民登録模写電送化のため、それまでのバインダーをファイリングシステムとするよう住民票台帳を書き替える筆耕作業に従事した。後者の仕事は、臨時職員も加えて行う忙しい作業であったが、原告は身体的条件が悪く残業まですることはあまりできなかった。

4  昭和四五年六月から同四六年三月までの間の篠ノ井西中学校における学校図書館司書としての原告の仕事は、生徒の読書の時間を週六時間、読書クラブを週一時間受け持って読書作法を指導するほか図書の購入、廃棄、修理、貸出等をするものであった。

5  昭和四六年四月から同五一年三月までの間(但し、同四六年九月一〇日頃から同年一二月までの療養休暇期間、同月から同四七年三月三一日までの病気休職期間、同年九月一日以降同年一一月三〇日までの療養休暇期間、同日以降同四九年九月三〇日までの休職期間を除く。)、篠ノ井西中学校において原告の担当した学校事務は、市から配布された予算の執行に関する事務及び電話の取次、来客接待等の雑務が恒常的な業務であったが、そのほかに篠ノ井西中学校における特別な事務として、毎年四月、五月には遠距離通学者に対する市の補助金交付に関する事務を担当しなければならなかった。右の補助金事務は、年間計画書、交付申請書、領収書等多数の事務書類を手書きし、それに生徒の保護者から預った印鑑を極めて多数回にわたり押印しなければならないもので、年間の交付事務を年度当初の四、五月にまとめて処理するためかなり忙しい仕事であった。

《証拠判断省略》

三  原告の発病及びその後の経過(請求原因3の事実)

当事者間に争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  原告は、昭和三八年に篠ノ井市役所塩崎支所に勤務するまでは特記すべき既応症はなく、極めて健康体であったところ、同支所勤務当時も仕事が変わったことで精神的肉体的な疲労を感じていたものの特に支障になる程のものではなかったが、昭和四二年に長野市役所篠ノ井支所の仮庁舎に勤務するようになってから、肩凝り、後頭部、足腰の痛み、手指、腕のしびれ、生理痛、声が出なくなる、目がチカチカする等の自覚症状を覚え、当時は同じ職場の他の職員も肩凝り、足腰の痛み、目の疲労等を訴えており、同僚同士で肩の揉み合いをしたり、していたが、原告の前記の症状は悪化する一方であった。原告は、窓口事務をしていると市民を相手に神経を使うので、昭和四四年五月希望して資料係に配置換えさせてもらったが、ここでも肩凝りがひどく、戸籍の附票の記載事務をしていても字が踊って見えたり、目の奥が痛む、物が二重に見える等の目の変調が強くなった。そこで、原告は、昭和四五年四月、メガネ店でメガネを調整してもらい、同月二七日松本市の平林眼科医院に通院し、「眼精疲労」との診断を受け、薬と注射の治療を受けたが軽快しなかった。

2  原告は、昭和四五年六月から篠ノ井西中学校における図書館司書の仕事に移ってのちも、前記の症状が持続していたものの、生徒を相手に自分のペースで仕事ができ気分的には楽になっていたが、同四六年四月に学校事務に移り、四月、五月に集中して遠距離通学の補助金事務をしたため、前記の自覚症状が激しくなり、ペンを持って字を書くとペンが手から落ち、肩が強く凝って固くなり、職場で肩を揉んでもらっても右肩は柔らかにならず、通勤にはタクシーを用い、職場には長椅子を持ち込んで疲れると横になり、帰宅するとすぐに布団に倒れて起きるときには母親に背中をさすって起こしてもらい、母親に背中にトクホンチールを塗ってもらったりして必死の状態で日常生活を送るようになった。原告は、この間、昭和四六年六月二五日、長野市の順天五明堂病院で「眼精疲労、多発性神経炎」との診断を受けたが、同年七月二四日、佐久総合病院の眼科の診断を受けたところ「目に異常はない。」旨言われたので、同日、同病院の内科の検査を受けたが「異常なし。」との診断であったけれども、とにかく体が疲労して入院したかったので、更に同月三一日、同病院神経科を神経症の症状で受診したが入院は認められなかった。原告は、同年九月三日、柳原整形外科を受診し、柳原吉江医師により、「上肢の脱力感と頸部痛、後頭部痛があり、上肢の筋肉萎縮、知覚異常は認められず、レントゲン写真では頸椎の管異常、知覚異常は認められず。」との診断を受け、外来で九日間治療後、同月一二日から同年一二月一八日まで「頸腕症候群」の病名で入院し、頸椎の牽引、温熱療法、水中機能訓練、マッサージ、超短波療法、内服薬、注射等の治療を受けた。この間に、原告は、同年一一月二二日、長野赤十字病院整形外科で、「神経症、頸腕症候群」との診断を受けている。

3  原告は柳原整形外科を退院後、昭和四七年三月中まで自宅療養し、その間近くの温泉へ行ったり、自宅でにんにく灸をしてもらい、同月三日、長野医療生活協同組合長野診療所の山内医師から、「右肩の筋肉が張っており、頸腕症候群の疑いあり。」との診断を受け、同年四月復職以降も同年八月までの間週に一、二回の割合で鍼の治療を受けた。しかし、復職して、四、五月にまた遠距離通学補助金事務を行ない、前記の症状が軽快しないでいたところ、同年七月三日、大田病院(東京都大田区大森東四丁目四番地一四号所在)の斉藤和夫医師の診断を受け、その結果、病名は、「頸肩腕症候群、背腰痛症、自律神経不安定症」で、所見は、「触診で左右頸部、背部、腰部、肩、上肢に圧通変化を認めた。筋萎縮は認められない。レ線所見では頸椎、腰椎に異常を認めない。」旨であった。そして、同年九月一日から同四八年三月一日まで同病院に入院し、薬物、温熱、理学療法という頸肩腕症候群に関する専門的治療を受けた。同病院を退院後、昭和四九年九月三〇日までは自宅で療養し、一か月に一週間程度山梨県の石和リハビリテーション病院に行って入浴療法、鍼、マッサージ、頸腕体操の指導を受けていた。大田病院に入院して以来、症状は全般的に軽快に向い、昭和四八年二月一八日の時点では、「自律神軽失調症状は次第に好転してきたが、頸部、傍背椎筋群の圧痛硬化、上肢特に右上肢の痛みが強くみられる。瞬発筋力も好転しているが、持久力の向上は十分でない。」旨の斉藤医師の所見であったが、同四九年七月一七日の大田病院上畑鉄之丞医師の診断の時点では、同病院の初診当時に比較して筋硬結、圧痛のある部位は非常に縮小しており、職場復帰を考えるよう示唆されるほどに回復した。昭和四九年一〇月一日より職場復帰し現在に至るまで症状の再変はなく、軽快した状態となっている。

《証拠判断省略》

四  公務起因性(請求原因5の事実)

1  地方公務員災害補償基金理事長が、頸肩腕症候群について同基金の各支部長宛昭和四五年三月六日「キーパンチャー等の上肢作業に基づく疾病の取扱いについて」と題する通達(地基補第一二三号、昭和四八年一一月二八日地補第五四三号及び昭和五〇年三月三一日地補第一九一号により改正)を発し、同基金補償課長が同基金の各支部事務長宛「「キーパンチャー等の上肢作業に基づく疾病の取扱いについて」の実施について」と題する通達(昭和四五年三月六日地基補第一二四号、昭和五〇年三月三一日地基補第一九二号)を発し、同基金各支部長が、右各通達をもって、公務上外認定の判断基準としていることは、弁論の全趣旨により認めることができる。

右各現行の通達によれば、いわゆる「頸肩腕症候群」とは、種々の機序により後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手又は指に、「こり」、「しびれ」、「痛み」などの不快感をおぼえ、他覚的には、当該部位の諸筋に病的な硬結若しくは緊張又は圧痛を認め、ときには神経、血管系を介して頭部、頸部、背部、上肢に異常感、脱力、血行不全などの症状をも伴うことのある症状群であると定義され、それが公務上の災害とし認定すべき基準として、(一)キーパンチャー等その他上肢(上腕、前腕、手、指のほか肩甲帯を含む。)の動的筋労作または静的筋労作を主とする業務に従事する職員で相当長期間(一般的には六月程度以上)継続して当該業務に従事したものであること、(二)業務量が同種の他の職員と比較して(当該勤務所における同性の職員であって、作業態様、年令及び熟練度が同程度の者の平均的な業務量との比較)過重である場合またはその業務量に大きな波があること、(三)いわゆる「頸肩腕症候群」の症状を呈し、医学上療養が必要であると認められること、(四)公務以外の原因(外傷、先天性の奇形他八項目の疾病)によるものでないと認められること、(五)当該業務の継続によりその症状が持続しまたは増悪する傾向を示すことを掲げ、公務上外の認定にあたっては専門医によって詳細には握された症状及び所見に従って行うこととされている。

しかして、この種疾病における公務起因性を判断するに当っては、おおむね右通達の基準によるのが相当であると考えるのであるが、右認定基準(二)については、比較の基準を当該勤務所における年令、性別、作業態様及び熟練度が同じ条件の労働者の平均的な業務量に置いているけれども、実際問題としてこのような比較すべき適切な対象者が得られがたく、仮に得られたとしても、その労働者の能力によって判断が左右されることは相当ではないと考えられるので、結局、認定を受けるべき者の適切な業務量を基準として過重であったかどうかを判断すべく、業務量と個体の体力とのアンバランスすなわち業務量が個体にとって過重であることから頸肩腕症候群が発症したと認められれば、それをもって足りるものと解するのが相当である。おもうに、使用者は、労働者の健康管理を十分に行い、労働者の体力に相応した業務量を与え、労働者が業務の遂行によって疾病にかからないように注意すべき義務があるから、労働者の体力にとって過重な業務の遂行により惹起した疾病につき、業務起因性を認めるのが合理的だからである。

《証拠省略》を総合すると、次のとおり認められる。

(一)  日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会は、頸肩腕障害を「業務による障害を対象とする。すなわち、上肢を同一肢位に保持または反覆使用する作業により神経・筋疲労を生ずる結果おこる機能的あるいは器質的障害である。」と定義し、病像形成に精神的因子及び環境因子の関与も無視しえず、したがって、本障害には従来の成書にみられる疾患も含まれるが、大半は従来の尺度では判断し難い性質のものであり、新たな視点に立った診断基準が必要であるとしている。また、その病像を分類し、「Ⅰ度、必ずしも頸肩腕に限定されない自覚症状が主で、顕著な他覚的所見が認められないもの、Ⅱ度、筋硬結、筋圧痛などの所見が加わるもの。Ⅲ度、Ⅱ度の症状に加え、筋硬結、筋圧痛などの増強または範囲の拡大など一一項の所見のいくつかが加わるもの。Ⅳ度、Ⅲの所見の多数が認められるもの、または器質的障害他三種の特徴ある病像が認められるもの。Ⅴ度、Ⅳ度の所見が強くなり、作業のみならず、日常生活にも著明な障害を及ぼすもの。」としている。

(二)  頸肩腕症候群の病理機序は未だ十分に解明されるには至っていないが、その発症要因は極めて複雑であり、労働負荷の程度、労働者個人の肉体的要因、それに加えて心理的要因等が複雑にからみあって発症するとされており、整形外科の立場からは、事務をとったり、事務機器を使用したりする主として上肢を使用する作業労働者にみられる障害で、上肢運動器の弱体状態にあるものが頸椎肩甲帯から上肢に静力学的負荷がかかって歪を生じ発症するもので、全身を均等に使わない状態が持続した時に不定愁訴が加わって、心身共に不健康の状態を来たした病態とされ、冷房のきいた部屋で長時間上肢を殆ど使用する場合に発症が多くみられ、職場における人間関係等の精神面における不安定によって愁訴が助長されることも多いと指摘されている。また、産業衛生学的見地からは、頸肩腕障害は、高度な正確さや多面、持続的な神経集中、気配りを要求され、迅速性をともなう業務や一連続作業の長い単純反復作業によって惹起される慢性過労性・脳(中枢神経系)疲労性の健康障害であるとされ、要するに、上肢作業に従事することにより単なる筋肉の肉体的疲労が蓄積するのみならず、それに伴って神経緊張の持続等による精神疲労などの脳・中枢神経系の疲労が蓄積して自律神経の不安定な症状も生じ、その結果おこる機能的器質的な障害とし、従って、その発症及び病像増悪の要因として、職場における緊張度の高い対人関係、寒気・不十分な照明・騒音等の職場環境、作業量の一時的な負荷過重、作業内容・職場の変化等の作業疲労を増大させる条件を重視しなければならないとしている。そして、頸肩腕障害は、非常に早期に適切な治療を受け療養・作業軽減をすると完治することが多いが、さして苦痛でない疲労症状が慢性化した状態で相当長期間働き続けた後に一時的な負荷過重により苦痛な症状があらわれたときには、その治療は極めて困難となり、相当長期間を要することが多いとされている。

以上の認定を左右するに足る証拠はない。

3  そこで、以上の考え方に従って原告の疾病の公務起因性を検討する。

(一)  原告の従事した業務内容・職場環境と発病及びその後の経過は前記二、三に認定のとおりであって、原告が約六年間従事した市民係としての窓口事務は、筆記、押印作業の他簿冊の出し入れ等の主として上肢を使用する作業であるうえ市民を相手に緊張を強いられ、とりわけ篠ノ井支所仮庁舎時代には、種々の作業環境が劣悪であったため疲労度の高い業務であったと推認でき、また、原告がその後に従事した市役所の資料係及び学校事務では、筆記作業について一時的な負荷過重があったものと認められるところ、原告は昭和四二年五月篠ノ井支所仮庁舎に勤務する頃から前記のとおりの症状が発現し、その後も症状が悪化する一方で、昭和四五年六月学校事務に移って遠距離通学の補助金事務で筆耕作業をしたことにより急激に症状が悪化して、同年九月から欠勤するに至り、同四七年四月にはいったん復職したものの、再び前記補助金事務をしているうちに欠勤前と同様の症状となり、同年九月から欠勤するに至ったこと、そして業務から二年一か月離れて専門医の治療を受けるなどした結果、症状は軽快に向い、同四九年九月三〇日復職し、その後今日まで症状の再発はないことが認められる。

(二)  《証拠省略》によれば、原告が大田病院に入院当時の主治医であった斉藤医師は、臨床検査の結果、原告の傷病名は「頸肩腕症候群、背腰痛症、自律神経不安定症」であり、疾病の発現、経過とあわせて考えると、原告の従事した作業内容、職場環境が疾病の主たる原因であると診断していること、また、昭和四九年四月一七日から斉藤医師を引き継いで原告の診察にあたった上畑医師は、頸肩腕障害等の職業性疾病を専門的に研究を行ない、実際の治療をも行なっている頸肩腕障害の専門医であるが、原告が大田病院で初めて診断を受けた昭和四七年七月三日当時の症状は、頸肩腕障害の前記病像分類のⅣ度にあたるものであり、原告が「眼精疾労」とか「自律神経不安定症」との診断を受けているのはいずれもその部分症状とみるべきものであり、また臨床検査の結果原告には右症状を惹起させる基礎疾患はなく、原告の病状、作業歴等からみて原告の疾病は原告の従事した業務に起因するものと診断していることを認めることができる。

(三)  以上の事実と前記二、三に認定した事実を総合すると、原告の頸肩腕症候群はその公務に起因するものと認めるのが相当である。

被告は、原告が担当した業務は通常の業務に比して過重なものではなく、原告の従事した作業環境が通常の業務に比して著しく不良なものともいえず、原告の疾病は体質的な弱さから発症したもので、公務と疾病との間に相当因果関係が認められない旨主張するが、頸肩腕症候群が公務上の災害と認められる要件としての業務量の相対的過重とは、作業量と個体の体力とのアンバランスから本症が発生したと認められればそれで足りる趣旨と解すべきことは前記のとおりであるし、原告にはその症状を惹起させる基礎疾患はなく、医学上の判断としてもその発症が原告の従事した業務に起因するものとして納得しうることは前記認定のとおりであるから、被告の右主張は採用できない。

4  してみれば、原告の疾病は公務上のものとは認められないとして被告が昭和四九年四月一〇日付で原告に対してなした地方公務員災害補償法による公務外認定処分は違法であるから、右処分の取消を求める原告の本訴請求は理由があるものといわなければならない。

五  (結論)

よって、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 安田実 裁判官 松本哲泓 三木勇次)

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